信濃の疏水
農業者によって守られてきた疏水
現在では当たり前のように流れている疏水、開削時の苦難の歴史は語り継がれていますが、その陰には農民等による絶え間ない、目立たない、地道な維持管理の歴史があります。江戸時代までの疏水は、領主の統制のもとに村あるいは村々組合の用水として運営されていました。その組合は、井組、水組、用水組合、堰組合などとよばれ、用水の配分、保守・修繕などの維持管理を担ってきました。水路の土砂上げや草刈りばかりでなく、大雨により取水口が被災したり、水路が破損したときの緊急的な対応も必要となります。
明治時代には、廃藩置県により現在の長野県が誕生し、明治23年に水利組合条例が制定され、県知事の認可による水利組合などが維持管理するようになりました。昭和24年には、戦後の食糧増産に伴い土地改良法が制定され、ほ場整備や水路整備、畑地かんがい施設整備など土地改良事業を実施するための土地改良区を設立できるようになりました。県内には現在(平成28年時点)、111団体の土地改良区と6団体の土地改良区連合が認可されており、土地改良事業を推進するとともに、組合員による草刈りや土砂上げなど日常管理に加えて、取水口や分水ゲートの管理操作、水路の保守・点検、修繕等を行い、それらに必要な経費として賦課金の徴収などを担っています。近年では、施設の老朽化が進行しており修繕や更新費用が増加しているばかりか、農業者の減少や高齢化により労力が不足していることから、多面的機能支払交付金などを活用して農業者以外の地域住民とも協働で草刈りなどの管理が行われています。(記載の一部は、長野県土地改良史から抜粋)
出典:農の営みをささえる 信濃の疏水