信濃の疏水
飯伊地域
農民の願いと夢 恩田井水(おんだいすい)
下伊那郡の南西に位置する阿智村伍和地区は、地形が急峻で川は集落のはるか下の谷底を流れており、明治の頃まで井戸水にも難儀する地区でした。特に大鹿倉・備中原などには未開の山野が多く主な農産物は雑穀類でした。このため、伍和地区の農民は水を引くことが長い間の願いであり夢でもありました。
この地の漢方医太田宗碩は、旧浪合村の恩田川に目をつけ、万延元年(1860年)から地形に合わせて要所に糸を張り、そこに水を満たした木の弁当箱を当てて測量を行い、いく日もかけて高低を確かめました。その結果、恩田川から伍和地区へ水を引くことができると確信し、村人たちに熱心に説いて気運を高めました。
宗碩の死後幾度か実地検分などが行われ、明治27年(1894年)恩田井水組合は、原九右衛門を委員長にして井水の工事を敢行し、延長6・5㎞の恩田井水は同31年11月に幾多の苦難を乗り越えて竣工しました。
こうして伍和地区上段の水田35haの稲作が可能となり、その後、井水は下流にも延長されて長さ約9㎞となり、水田80haを潅漑するようになりました。
昭和2年の災害を契機に土水路をコンクリートの水路にする工事が行われ、その後、幾度か災害普及工事や村営事業等を経て今日の恩田井水となりました。しかし、隧道の未改修部分で、落盤被害や管理道路の崩壊が頻繁に発生することから、平成21年度より県営中山間地域総合農地防災事業として玉屋裏2号隧道、三ツ洞隧道、知浪隧道、扇ヶ洞隧道、深沢隧道の改修が採択され、現在工事に着手しています。
2010年12月掲載
◦ 恩田井水は、恩田川から取水した水を一度大沢川へ落とし、再びその下流から同量の水を取水している。
◦参考文献 『浪合村誌 下巻 現代編』一九八四年
『阿智村誌 下巻』一九八四年