信濃の疏水
飯伊地域
宿場町の思いを後世につないだ山腹水路 駒場大井(こまばおおい)
下伊那郡阿智村の駒場は、東山道に宿場が所在していたなど、古くから交通の要衝として栄えた街道集落です。山間地に挟まれた駒場の中で唯一開けた関田地区には、駒場大井の用水による肥沃な水田地帯が広がっています。
古くから栄えた駒場ではありますが、宿場の生活用水や関田地区の農業用水は、水量の乏しい「岩の沢」、「大六沢」などの沢水に頼らざるを得ず、水の確保に大変苦労していました。江戸時代の中期には、用水確保のため、桜原の堤(ため池)が造られましたが、この堤も耕作に十分な水量を三日と確保できず、農民は水不足に苦しんでいました。
このため、水量の豊富な阿知川からの引水を切望し、明和8年(1771年)駒場大井の用水開削計画を立案し着手しました。しかし、当時の測量技術や土木技術では、水路の勾配調整が難しく失敗に終わりました。その後、文政4年(1821年)に再び開削に着手しましたが、十分な水量を引くことができず、またもや失敗に終わっています。
幕末に至り、諸物価の高騰や農作物の不作が重なったことにより、米の需要が高まりました。二度の失敗により引水を諦めていた駒場でしたが、引水への思いは再び高まり、元治元年(1864年)、三度目の開削工事に着手、最初の着手から約100年後の慶応2年(1866年)、延長約4・3㎞の用水路が遂に完成しました。その後、昭和50年代にはコンクリート水路への大改修が行われ、用水は安定供給されるようになりました。
完成から150年を迎えた今日も農業用水はもとより、地域の防火用水や生活用水として駒場全域を潤しています。
2016年6月掲載
◦施設の管理者 駒場大井組合